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2012年6月

自己分析5

高校に入ってバンドも始めていた。ろくに弾けないくせにキーボーディストになろうとしていた。

家には誰も弾かないのにピアノとエレクトーンがあった。
僕が歌謡曲に合わせてアドリブ(といってもドレミファソラシドをキーにあわせて弾くだけだが、一応キーの観念はあったらしい。が転調にはついていけなかった)
をするか、高速でネコ踏んじゃったを弾くくらいで、あとはもっぱら取り込んだ洗濯物が置かれていた。

本当は曲が作りたかった。
というか、なにかを作りたかった。
昔から決められたことをやるより、自由になにか好きなものを作りなさいと言われるととても興奮したのだ。

作文であったり、英語のスピーチであったり、図工の授業であっても。抑えきれない想像力は簡単に僕のスキルを超えてしまうのだ。
そのイメージはまったく形にできなかった。
だからと言ってスキルを磨こうとは当時は思わなかったのだ。
頑張ったのは水泳くらいである。フォームのイメージを理想に近づけて行くことはしたが、
水泳はそんなにクリエイティブでもなかった。

もちろん作曲するのも魅力的な夢だった。
気持ちだけはずっとクリエイターだったのだ。
小学校の卒業アルバムにはナムコのサウンドクリエイターに成りたいと書いてあったのに、ろくに楽器も出来なかった。

ところで、うちの父は広告デザイナーである。
日曜日の家では父は好きなレコードをかけてとても自由に過ごしていた。流行りの洋楽から河島英五、リチャードクレイダーマンに至るまで聞いていた。あとジョンレノンはずっとかかっていた気がする。

そういう環境と遺伝があった為に僕がこの道に進んだのかもしれないが、父からなにかを強要されたことは一度も無い。
好きなことをやりなさい。という感じだった。
母も自分のやりたいことをやりなさい。でも自分で責任取りなさいと、いつも言っていた。
思い返すと非常に恵まれていたと思う。感謝の言葉もありません。

が、しかし演奏のスキルはないのでバンドではアップアップだった。
知り合いからシーケンサーYamaha QX3も買った。そっちのスキルはメキメキ上達していった。

弾くことのスキルをあげなければと思い、プログレ少年だった僕は

プログレ=クラシックということでピアノを習うことにした。
ロン毛の高校生がピアノの先生に対してプログレを熱く語るという、今思い出しても赤面なエピソードとともにレッスンが始まった。
しかし、全然練習しなかったので先生もミソ扱い。

発表会も出たのだが、バリバリショパンを弾く小学生に混じってロン毛の高校生が拙いエリックサティを弾くというシュールな状況だった。

水泳のレースはガムシャラで乗り切れたけど、繊細なピアノはガムシャラでは乗り切れないなと当時思っていたが
たくさん練習して無意識でも出来るくらいになって初めてガムシャラになれるんだときづいた。
結局練習が足りなかったのだ。

しかしさらにキーボードから遠ざかることになった。
アレンビックのコピーモデルのフェルナンデスを持っていた為に、メタリカのコピーバンドのベースボーカルに抜擢されたのだ。当時新加入ジェイソンはアレンビックを弾いていたのだ。

といってもそんなに弾ける訳もなく、歌なんて歌える筈もないのである。
メタリカのベースはギターとほぼユニゾンなのでイントロはまあなんとか誤魔化せた。しかし高速リフを弾きながら歌える訳もなくひたすら四弦開放を弾いていた。
これはスレイヤーのトムアラヤがツアーの最初は新曲は歌いながら弾けないから四弦開放を弾いてるよ。でもツアー後半には弾けるようになるよと言っていたのを参考にしたのだ。
僕はもちろん弾けるようにはならなかったが。
大体初めてすぐなのにベースボーカルとか無謀でしかない。

やっぱり、ここでもそこそこしか練習しないでそこそこの気分を味わう悪い癖がでた。

その頃には水泳より音楽に魅力を感じていたのだ。多分、自分にとってクリエイト出来るのは水泳より音楽だと思ったのだと思う。
ただイメージを形にしていくのはまだまだ先の話だった。


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自己分析4

高校では水泳部に入った。OB,OGの方、先輩もみな真面目だった。
体育会のこういうノリは嫌いじゃない。なぜならどっぷりMに洗脳されていたからだ。
頑張って頑張って最後に勝利。
一体なにに勝とうとしていたのか?

練習はきつかったのだが、部活はある意味団体戦でもあった。力をあわせて優勝を目指すということはスイミングスクールでは余りなかったからそれが僕には心地良かった。

いつも練習は不真面目だった。
都合よく解釈すれば効率的だったとも言える。
自分が必要と思えないメニューには明らかに手を抜いていた。
昔から結果を見据えてポイントを絞って練習するのが好きだった。
それは今の楽器の練習でもそうである。
しかし、先輩にしてみればやる気が無いようにしか写らないだろう
でも僕はクロールの選手なのに背泳ぎを練習する意味がわからなかった。

といいつつも先輩のいう事を素直に聞かない俺かっこ良いなんていう中学生みたいな気持ちがあったのも否めない。
そしてそのことで女子の先輩やマネージャーをキュンとさせたことなどは一度たりとも無かった。

先輩や同級生のなにがなんでも練習するとか、もっと勝つ為に練習したいなどというカルトじみた発言は信じられなかった、きっと家族を人質に取られて当局に言わされているんだろうとしか思えなかった。
今思えば僕はそこそこの努力でそこそこの青春を味わいたかったのだと思う。

そうして迎えた夏休み。
当然毎日泳ぐのだ。泳ぐ時間がふえると自分と向かい合う時間も増える。
一日ひたすら泳ぎながら自分と会話するのだ。
なぜこんなにキツイのに頑張るのだろう?
人生で三回しかない貴重な高校生の夏休みをなぜ練習に費やさなければいけないのだろう?
なぜ100mなら1分もかからないレースの為に一ヶ月以上泳ぎ続けるのだろう?
みんなは夏休みを満喫しているのになんで俺だけこんなキツイ目に…
悪魔からの一方的なささやきによって世界で一番不幸だという雰囲気に一人浸っていた。
アスリートなら誰でも当たり前にやることなのだが、もっともらしい理由をつけてサボりたかったのだ。
まあ、言い訳でしかない。

しかし、そこでは泳ぎ続けるしかなかった。一年生のぺーぺーには意見など許されないのだ。
苦しいインターバルトレーニングの最中朦朧となりながらも気づいた。

ここでは誰も助けてはくれないんだ、頼れるのは自分だけ。
代わりに泳いでくれる人はどこにもいないんだ。
自分に負けたら死ぬのだと、泣きそうになりながら
大袈裟に解釈していた。

しかしそれはある意味真実だったのだ
前々からなんとなく気付いてはいたのだがそれは確信に変わった。
僕の人生のターニングポイントだったのかもしれない。

だからといって孤独に打ちのめされたのではない、水泳が孤独なんていうことは以前からわかっていたのだ

なぜなら、持ちタイムで順位がほぼ決まってしまうのだ。回りが遅くても自分が頑張ればベストタイムをだせるし。回りが速くても自分がいつもよりものすごく速く泳げるわけでもない、と非常に冷めた考えをしていた。

そんなこんなで夏の大会を迎えた。結果はたしか100mは三位
だった気がする。超短距離選手だった僕には200m,400mは罰ゲームのようだった。
さらにリレーもあり、予選、決勝を含め1500m以上ダッシュで泳ぐなど正気の沙汰ではないと思った。
それでも終わったあとは充実感で一杯であった。
そこそこの努力でそこそこの結果を残し夏は終った。

僕に残ったのはパンダの様なゴーグルと水着の柄の日焼けの跡だった。
そして、一度しかない自分の人生は誰も代わりはつとめられないから,
今やりたいことやらねばと思ったのだった。

あと、そこそこの努力ではそこそこの結果しかでないが、
本当にやりたいことは努力とは思わないでも出来るようだ。
そうしたことはちゃんと結果が証明するのだろう。

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自己分析3

小学生になると、水泳を習い始めた。
最初は楽しく通っていた。
別にセンスがあったとは思わないがスムーズに進級していったのだ。
それが認められ大会に出ることになった。
そういう子供たちは集められ育成クラスで練習することになるのだが。上手に泳げるようになる練習から速く泳ぐ練習に変わると非常に苦しかった。

しかし、初めて大会に出た充実感は凄かった。そしてメダルなど貰おうものなら子供の自尊心を満たすには十分だったのだ。
耐えて耐えて最後に解放するというMっ気はこのとき培われたのだろう。
育成クラスは何時の間にか選手クラスに変わり、ベストタイムを出すのが目標となっていた。

そのプレッシャーは凄かった。
大会で自分の出番を待つ間、どうしたら逃げ出せるか考え、隣のコースの知らない子にゆっくり泳ごうぜと促したり、お腹をさすって痛いフリをアピールしたり。あらゆる妄想をしてヘブン状態になるが、無常にも出番はやってくるのだ。

ピストルが鳴り水に飛び込むと冷たさで我に帰る。
そうだ、ここも戦場だった。
遅いタイムで泳ごうものならコーチになにを言われるかわからない。そのせいで練習がハードになることも考えられる。ここではそれは死を意味するのだ。
生きて帰る為には死に物狂いで泳ぐしかない。
しかもコーチは姑息にも呼吸の回数を数えている。呼吸が多いことは罪である。遅くなるからだ。
無酸素運動で体を限界に追い込むと体なんてうごかない。
しかしラスト12.5mはラストスパートをかけろと洗脳されているのだ。残った力を振り絞り必死にバタ足をする。
本当にこれが辛いのだ。夢に出るくらい辛い。お尻の穴が開いて全部出てしまいそうなくらい力がはいらなくなる。

なんと哀れな小学生なのだろうかとみんな思っていたに違いない。
ゴールすると嗚咽してしまうくらい苦しかった。
しかしベストタイムがでると安心とともに嬉しかったのも事実である。
この頃からなんとなく気付いていたのは僕にとって敵というのは隣のコースの彼ではなく自分だったのだ。

スイミングスクールで選手として中学卒業まで続けた。
この時培われた体育会的ノリと自分の内面と向かい合う時間はのちにものすごい影響を与えたと思う。
水泳選手とは孤独で常に自分と闘わなくてはいけないのだ。
このころはまだぼんやりとしかわかっていなかった。
それを自覚するのはもう少し後である。



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